わたしが”ええかっこしい”を嫌いなのは自分が”ええかっこしい”だからかもしれない

皆さんは”ええかっこしい”という言葉をご存知だろうか。


これは大阪弁で「かっこつけたがるヒト、モノ、コト」のことである。


大阪人は皆、”ええかっこしい”が嫌いだと思うが、わたしも例に漏れず”ええかっこしい”が嫌いである。


昔から「あいつは”ええかっこしい”や。気に食わん。」とか「あのブランドは”ええかっこしい”やからあそこで服は変わん」とか思って”ええかっこしい”に対する憎しみを育み続けた気がするが、わたしはわかった気がする。


なぜ自分は”ええかっこしい”が嫌いなのか。


それは、


自分も”ええかっこしい”だからである。


自分も他人からカッコいいと、よく見られたいのである。大していい服を着ているわけではないけど、着ている服はおしゃれだと思われたい。8頭身でもなければ小顔でもなければ痩せているわけでもないけど、スタイルはいいと思われたい。食事制限してるわけじゃないし脂肪ものりにのってるけど、筋トレしててかっこいいと思われたい。


たいして良くもないのに、ジニちゃんはかっこいいと思われたい。良く思われたい。


でも、現実はなんにもかっこよくない。


だから、本当にかっこよく見える人を、本当にかっこつけれている人を”ええかっこしい”だと思い、憧れ、嫉妬し、憎むのである。


例えば、わたし個人の感情の域からは外れるが、


大阪人はだいたい京都を嫌いなもので、「京都は”ええかっこしい”や。嫌いや。」と思う人が多い。


わたしも大阪人としては京都にいい感情ばかりを抱いているわけではない。むしろ嫌いだ。


錦市場に行けば、京野菜というだけで大根の漬物が相場の何倍もの値段で売られているし、店の歴史が長いことを主張してくるのも嫌だ。寺が観光地化しているのも、「これこそが日本だ。This is THE Japaaaaaaan!!!!!」ヅラしているのも嫌いだ。大阪にも伝統ある高級料亭があるにもかかわらず、歴史ある寺や街並みや城があるのに、他県民から「大阪はグリコ、お好み焼き、たこ焼き、それが終われば夜は京都の日本料亭。泊まるのは京都の和風リノベーティッド長屋。え?大阪?料亭なんてあるの?」と思われるのも癪である。


ただ、この大阪人の京都に対する鬱屈した感情も、すべては自分たちも”ええかっこしい”だからである。


もっとよく見られたい。かっこよく思われたい。大阪も高貴で素敵だと思われたい。


それだけなのだ。


つまり、”ええかっこしい”を嫌う気持ちとは「嫉妬」なのである。


自分は、自分がかっこいいと思うものに対して、嫉妬しているのである。


そして、”ええかっこしい”と思うとき、自分が嫉妬しているものが「自分かっこいいやろ?」とこちらを向いて笑っている気がしているのだ。


なんだ、”ええかっこしい”と思う度に
「わたしはなんて偏見にとんだ嫌な人間なんだと、なんて屈折しているんだ、なんで素直にかっこいいと思うものを称賛できないんだ」
と思っていたが、これはただの嫉妬だったのである。


わたしもかっこよく見られたい。とってもマーベラスでファビュラスで素敵な女性だと思われたい。


でもそう見られようとしてふるまうとただのわたしが嫌いな”ええかっこしい”に成り下がってしまう。


自分は”ええかっこしい”が嫌いだけど、いまの自分はただの”ええかっこしい”だし、そんな自分を嫌だと思う。しかし、自分のことが嫌いでも、”ええかっこつけたい”という潜在意識はきっと生きているうちは消せないわけで、ただただ地を這って生きないといけないのである。


そんなことを考えた夜。