文字を追うのが苦手です

私は文章を読むのが苦手だ。頭の中で音読するから、読むのがゆっくりになる。理解するのも遅い。森博嗣さんが「小説家という職業(集英社新書)」という本の中で、文字を読むのが大の苦手だったと書いていた。国語の試験は文を読むので時間がなくなり、問題を解けなかったとも。ここまでではないけれど、私も文字を追うスピードが遅い。センター試験の国語なんて、時間内にちゃんと解けた試しがない。


母と妹は、読書が大好きだ。母なんて、気づいたら本を読んでいる。しょっちゅう本屋に行っては新しい小説を買ってくる。どうしてそんなに早く小説を読めるのか不思議でたまらない。妹も本をたくさん読む。彼女は国語の成績がやためったら良く、問題文を読むので必死だった私とは大違いだ。


母と妹が本をたくさん読むことと、世間一般の「本をたくさん読むのがよい」という呪縛に、私は囚われすぎていた。一冊の本を長い時間をかけて読む私は、読書家の人を見て劣等感を覚えることすらあった。小説は、言葉を追ってそこから想像するのに時間がかかる。集中して読むから、内容はかなり覚えているが、その分疲れて、ぶっ通しで読めない。母は一日で、読んでいる小説の栞の場所がとても動く。私は微増しかしない。
「私は読解力が低いんだろうか」
そう思ったことは何度もある。


だが、好きな曲の歌詞を覚えるのは大得意だ。ビートルズ、AKB、Queen、その他もろもろ。歌はもともと音に乗っているから、頭で再生しやすい。文字が少ないので、想像するのもたやすい。好きな曲は歌詞カードを見て、何度も口ずさみ、覚える。カラオケでテレビ画面の歌詞を見ずに歌うことすらある。


小学校1、2年のときの担任の先生が、児童に詩や文を「暗唱」させてくれた。斉藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」に載っている文がメインだった。この中の文章を覚えて、「暗唱タイム」にみんなの前で暗唱する。1つ詩を言えたら、1つシールをくれた。このシールが貯まっていくのが嬉しくて、たくさん言葉を覚えた。結果、2年間、暗唱ではぶっちぎりのトップだった。


歌詞をやたらと覚える癖もここから来ていると思う。短くて、言葉をひとつひとつ味わえる文章は大好きだ。中学高校の電車通学しているときも、本を読むより、広告のキャッチコピーを見ていることが多かった。


意外と、医学書や評論の分厚い本を読むのは好きだ。言葉を追って、考えながら読むスタイルが、これらの本には適しているからだ。中学受験の勉強時代から、国語では小説より評論のほうが好きだった。女の子は小説のほうが好き、と言われているが、私は真逆だった。


「このときの主人公の気持ちを答えよ」なんて、考える時間がなくて困ったものだ。国語が得意な人は「そんなん書いてるやん」と言う。だが、書いてあるを想像して、さらに気持ちを表す言葉を考えなければいけない。「そんなん書いてるやん」の言葉の裏で、この子の脳がどれだけ黙って働いたことだろう。


小説は長すぎる。文字を追って想像するのに疲れてしまう。短編、長編に関わらず、文字の量に対して想像することが多いのだ。なんで、みんなそんなに早く読めるのだろう。


私は小説が嫌い、みたいに見えるが、実際手に取る本は小説であることも多い。本の値段に対して、想像して感動できることが多く、コスパがいいと思うからだ。一冊買ったら、長い間楽しめる。マンガは、一冊で書いている情報が少ない気がして、買うのをためらってしまう。すぐに読み終わってしまう。小説をスルメとすると、マンガはシュークリーム。どちらも美味しいけれど、長く楽しめるという意味で小説のほうがコスパがいい。


文章を読むのがしんどいと、うすうす気づいていたが、本好きを装ってきた。しかし今日、親しい人に
「ジニは文を読むのが苦手だね」
と言われた。人生で初めて指摘された。
ああ、そっか。私は文を読むのが苦手なんだ。もう認めちゃおう。私は文字を追うのが苦手だ。


そう認めたら、のろのろと本を読むのが正当化できる。読解力が少ないのかなと劣等感を抱くこともない。たくさん本を読むのが美徳という空気の中でも堂々と
「文字を追うのが遅いので。」
とか
「想像するのに時間がかかって。」
と言える。


自分の性質を理解して、「これが自分だから」と認めるのは難しい。世間体と劣等感。自分のことなんて、自分が一番分からない。だからこそ、私の性質を指摘してくれる人には、とても感謝している。自分のことが分かるから。


マイペースに至るまで、道のりは遠いなあ。